科学的思考力を育てるには「科学哲学」と「統計学」を学ぶべきではないか?
「 科学的根拠」に基づく意思決定が必要な世の中になっています。
では、その「科学的根拠」自体はどのように決定されるのでしょうか?
我々の未来に大きな影響を与える政策の決定では、特にこの「科学的根拠」に基づき、より最善であると考えられる選択肢を選ぶ必要に迫られます。
「どうせ偉い先生が決めてくれるでしょ」
その考え方が危険なことは、東日本大震災に伴う福島第一原発事故や豊洲問題などで、我々はもう十分に体感しているはずです。
偉い先生はある一分野の「専門家」であり、その他については「非専門家」です。ものによっては、あなたの方が詳しいことがあって当然です。特に未来について考える場合には、さまざまな観点からの意見が必要であることからも、「専門家」のみの意思決定では十分でないはずです。
未来を生きるのは歳をとった「専門家」ではなく、若い世代です。より良い未来を選ぶために、私たち自身が大きな問題に対して他人任せにせず、自らが正しい判断をしなくてはなりません。
では私たちは「科学的根拠」をどう判断したら良いのでしょうか?
長くなりましたが、ここからが本題です。
私たちは今以上に「科学的根拠」を吟味する必要に迫られています。そして、そのために必要な、いわゆる科学的思考力を養うには「科学哲学」と「統計学」を知っておくべきだろう、というのが僕の意見です。
科学的思考力とは科学を疑う力のこと
僕が科学哲学を知ったのは大学院で研究に行き詰まり、科学研究に疑問を抱いた時でした。
研究に行き詰った僕は、「もっと広い視点から科学を見るべきだろう。」また、「科学は正しく伝わってこそ意味があるのではないか?」と思い、まず科学コミュニケーションについて学ぼう、と考えました。(科学コミュニケーションについては後ほど記事にしたいと思います。)
科学コミュニケーションについて学ぶ中で、「なぜその方法が科学的に正しいと言えるのか?」を考える機会がありました。それが科学哲学を知るきっかけとなりました。
科学哲学では大きく分けて2つのタイプがあります。1つ目は、何をもって「科学的であるか・ないか」などの科学一般について議論するタイプ。そしてもう1つは、例えば物理学や生物学など個々の科学分野について、どのような理論や問題があり、それらについてどのような解釈が可能かを考えるタイプです。
後者のタイプについては、研究者の方が自らの分野について学ぶことで広い目線を持てる可能性があるのではと思いますが、もしかしたら釈迦に説法になっているのかもしれませんね(汗
僕は前者の、科学一般について議論するタイプを学ぶことで、科学的思考の基本的な考え方を身に着けるのに役立つのでは、と考えています。
ちょっと復習すると、演繹法はある事実や仮定に基づいて、論理的に事項を推理していく発散的な方法です。いわゆる三段論法などがこれですね。
帰納法は、さまざまな個々の事実から、それらに共通する原理や法則を見つけ出す収束的な方法です。
また発想法としては、日本人の川喜多次郎氏が発展させたKJ法もあります。
KJ法では、まず発散的に考えた後に得られた情報を収束させます。こちらはブレインストーミングによく用いられます。最初はどうすればいいか分からないかもしれませんが、やっているうちに理解できますし、チームワークも生まれて面白いですよ!
以下に簡単なKJ法の流れを示します。
さて、各分野の科学的手法により得られたデータやこれらの発想法を用いて得られた結論は絶対的に正しいと言えるのでしょうか?
その答えとして、オーストリアの科学哲学者 カール・ポパー (1902-1994)が提唱した「反証可能性基準」が重要である、と僕は考えています。
反証可能性基準とは、簡潔に言うと「科学的な命題は、実験や観測によって間違っていることが証明される可能性がなければならないこと」です。
もちろん反証可能性基準にも問題点はあります。しかし、間違う可能性に注目し、実際に間違っていた場合にどうするのか?が科学と向き合う際に重要なヒントを与えてくれると感じます。
「間違えていた場合にどうするか」ですが、その際には今まで正しいと信じていた仮説を捨て去り、現実に即した、より豊かな内容の仮説を提唱しなくてはなりません。
しかしながら、ここまで求められるのは最先端の科学を突き詰めている研究者などであり、多くの人には重要ではないでしょう。
私たちに重要なのは、その説が信用に足るものなのかどうか、を判断することです。
さて、提案された説が(今のところ)正しいと判断する必要が出てきた際に、私たちが頼れるのは何なのでしょうか?
僕は、「勘」も重要である、と考えています。これらは個人の人生から得られた「言葉にできていない理論」に基づいていると感じるからです。迷った時の直観は案外バカにはできません。
でも、やっぱり客観的な指標は欲しい。そんな時に頼りになるのは数字。そして、その数字を解析する道具としての統計となります。
世界は確立で支配されている
私たちが物事の良し悪し、信用性を判断する中心となるのは数字です。
例えば、野球の打率は打者の成績を判断する良い指数です。 また降水確率が高ければ傘を持って出かけますよね。(ちなみに降水確率30%とは、過去の同じような天気図から試算した場合に30%の確立で雨が降ることです。つまり70%で雨は降りません。)
自然界の事象はその多くが (きれいな) 数式で表されます。しかしながら、多くの場合、ある程度のバラツキを持っています。このバラツキが一体どれくらいかあるのか?数字で表すことができるのが統計の利点ですね。でも、その数字にどれだけ意味があるのかは、総合的に判断する必要があります。ここでバラツキがリスク管理に重要な影響を及ぼす例を紹介しますね。
ある種のガンになると、それに伴って血中のあるタンパク質 X が急速に上昇することが判明した、とします。健常者な人は、平均でaという数値になり、ガン患者は平均bという数値になることが分かりました。
これはガン発見の新たな指標になるかもしれません!
そこで4000人ずつの健常者と患者の血液からそのタンパク質 X を測定しました。すると以下のような結果となりました。
ふむふむ、じゃあ60mg/dLを境にして判別ができそうだ。
とやっては問題が起こるかもしれません!もっと拡大してみましょう。
若干ですが被っています。この場合どこまでの数値の人はガンではないとみなすべきなのでしょうか?
ガンの場合は見逃してしまうと大変ですよね。そのまま放っておいてガンが進行し、命を落とすかもしれません。また、精密に検査すればガンかどうか正確に判別ができます。
この場合は、見逃すことのリスクを考えて57mg/dLまでは「ガンの疑いがある」としてはどうでしょうか?検査に引っかかった人には精密検査を受けてもらいましょう。
リスクとコストを天秤にかける
ガンの例では精密検査でさらに判断ができました。
でも、そうはいかないものは世の中にいくらでもありますよね。
地震や津波に対する安全対策や環境中の毒劇物濃度の安全値はどこまでも追及できます。しかし、追及すればするほどコストがかかります。
私たちはそれらのリスクに対して、コスト面から妥当な値を決めなくてはいけません。
統計を用いれば95%の範囲でリスクをカバーできる、99%でできるなどが求まります。
どこまでリスクを取れるのか?他の防衛手段はないのか?
それを判断する際に、あなたの持つ「科学的思考力」そして「多角的な視点」が重要な役割を果たします。そして、信じること・疑うことを他者と議論して、建設的な決定ができるともっといい未来ができるかもしれませんね!
長々とした文章を最後までご覧頂きありがとうございました。
それではまた!